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新刊『小山さんノート』小山さんノートワークショップ編

¥2,640 税込

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「小山さん」と呼ばれた、ホームレスの女性が遺したノート。

時間の許される限り、私は私自身でありたいーー2013年に亡くなるまで公園で暮らし、膨大な文章を書きつづっていた小山さん。町を歩いて出会う物たち、喫茶店でノートを広げ書く時間、そして、頭のなかの思考や空想。満足していたわけではなくても、小山さんは生きるためにここにいた。

80冊を超えるノートからの抜粋とともに、手書きのノートを8年かけて「文字起こし」したワークショップメンバーによるそれぞれのエッセイも収録。

【小山さんのノートより】
働きに行きたくない。仕事がかみあわない。もう誰にも言えない。私は私なりに精いっぱい生きた。(…)私にとって、大事なものは皆、無価値になって押し流されていく。(1991年11月7日)

雨がやんでいたのに、またふってくる。もどろうか。もどるまい。黄色のカサが一本、公園のごみ捨て場に置いてあった。ぬれずにすんだ。ありがとう。今日の光のようだ。(2001年3月18日)

駅近くに、百円ちょうど落ちていた。うれしい。内面で叫ぶ。八十円のコーヒーで二、三時間の夜の時間を保つことができる。ありがとう。イスにすわっていると、痛みがない。ノート、音楽と共にやりきれない淋しさを忘れている。(2001年5月7~8日)

五月二十日、夜九時過ぎ、つかれを回復して夜の森にもどる。 にぎやかな音楽に包まれ、心ゆったりと軽い食事をする。タコ、つけもの、紅のカブ、ビスケット、サラミ少々つまみながら、にぎやかな踊りをながめ、今日も終わる。夜空輝く星を見つめ、新たな意識回復に、十時過ぎまで自由な時間に遊ぶ。合計五百十六円拾う。(2001年5月20日)

ほっと一人ゆったりと歩く。のどがかわいた。水かコーヒーを飲みたい。こんな活気のない金曜の夜、三百円もち、何も買えない。人間の人生は生きてる方が不思議なくらいだ。(2001年6月22日)

一体、五十にもなって何をしているんだと、いい年をしてまだ本をもち、売れもしないもの書いて喫茶に通っているのか……と、怒り声が聞こえそうな時、私の体験の上、選んだ生き方だと、私の何ものかが怒る。(2001年6月14日)

私、今日フランスに行ってくるわ。夜の時間をゆっくり使いたいの……。美しい夕陽を見送り、顔が今日の夕陽のように赤く燃えている。(2001年6月27日)

2階カウンターの席にすわり、ノートと向かいあう。まるで飛行機に乗ったような空間。まだ3時過ぎだ。流れるメロディーに支えられ、フランスにいるような気持ちに意識を切り替える。(2002年2月21日)

一時間、何もかも忘れのびのびと終わるまで踊ることができた。明るいライトに照らされた足元に、一本のビンがあった。冷たい酒が二合ばかり入っている。大事にかかえ、夜、野菜と共に夜明けまでゆっくりと飲み、食べる。(2002年9月28日)

五時過ぎ、十八時間の飛行機に乗ったつもりで意識は日本を離れる。外出をやめ、強い風が吹き始めた天空、ゆらゆらゆれる大地、ビニールの音。 (2003年9月7~9日)

目次
「はじめに――小山さんノートとワークショップ」登 久希子
「小山さんが生きようとしたこと」いちむらみさこ

小山さんノート
序 章 1991年1月5日~2001年1月31日
第1章 2001年2月2日~4月28日
第2章 2001年5月7日~8月21日
第3章 2001年8月22日~2002年1月30日
第4章 「不思議なノート」 2002年9月3日~10月4日
第5章 2002年10月30日~2003年3月16日
第6章 2003年7月3日~2004年10月12日

小山さんノートワークショップエッセイ
「小山さんとノートを通じて出会い直す」吉田亜矢子
「決して自分を明け渡さない小山さん」さこうまさこ
「『ルーラ』と踊ること」花崎 攝
「小山さんの手書きの文字」藤本なほ子
「沈黙しているとみなされる者たちの世界」申 知瑛

前書きなど
はじめに――小山さんノートとワークショップ
登 久希子

「こやまさん」と呼ばれる女性がいる。小山さんは、都内の公園の「テント村」でテント暮らしをしていた。彼女が亡くなってから10年が経とうとしている。私たち「小山さんノートワークショップ」のメンバーは、小山さんが遺した膨大な量の書き物の文字起こしをする有志として集まり、かれこれもう8年以上活動をしている。

 ■小山さんノートワークショップ
 小山さんが暮らしていた都内のテント村の住人だったいちむらみさこさんは、具合の悪くなった小山さんを助けるべく、テント村の外にも声をかけて「小山さんネットワーク」を作ろうとしていた。しかし、ほどなくして小山さんは亡くなってしまう。何十冊という小さなノートを遺して。公園暮らしの雨や湿気であまり保存状態のよくないノートも多い。小山さんの火葬の日、いちむらさんたちはそれらのノートも一緒に燃やしてしまおうと考えたが、1行読んで、これは残さないといけない、伝えないといけない、と強く思った。いちむらさんたちは、小山さんの一周忌に追悼展覧会を行い、ノートから文章を抜粋して作った小さな冊子を来た人に手渡した。そしてノートの文字起こし、データ化を一緒に行ってくれる人を募ることにした。

 追悼展覧会などを通して小山さんのノートを知った人や、興味を持った人が文字起こしに定期的に関わるようになっていった。そしてだいたい毎月1回、主に週末の午後から夜にかけて集まり、一緒にノートとパソコンに向かうというワークショップのスタイルが定着した。合間にストレッチをしたり、おやつを食べたりしながら文字起こしをし、最後にはいつも持ち寄った色とりどりの夕飯を囲んで、その日読んだところの感想やお互いの近況などを話した。おいしいものを食べることが、私たちは大好きだった。ノートの記述からうかがうに、小山さんも。

 手書き文字のデータ化だけならば、わざわざ集まって行う必要もない。なんならパソコンでほとんど自動的にできる機能もある。しかし、小山さんの書くものには、ひとりでは太刀打ちできない難しさがあった。ひとつは、小山さんは達筆すぎて、読みとるのに苦労する文字が多かったこと。ふたつ目は、小山さんがかなり独特の当て字を多用していたため、ひとりでそれらを読み解くのはほとんど不可能だったこと。そして何より、書かれている内容に三つ目の難しさがあった。小山さんのテント生活の記述は、あまりにも衝撃的だったり、悲しくつらいものだったり、あるいは面白すぎたりする描写に満ちているから、「これは!」と思った箇所をただちに誰かと共有したくなる。ワークショップのメンバーは、文字起こしをしながら、それぞれの視点や経験から、小山さんに共感したり、小山さんという人を想像したり、翻って自分自身を見つめ直したりしていたのだと思う。

 メンバーのなかで生きている小山さんと会ったことがあるのは二人だけだった。他のメンバーは小山さんの姿を見たことも声を聞いたこともなかったけれど、そんなことは私たちにとってあまり重要ではなかった。二人の話やノートの内容から小山さんのいでたちなどを想像して、それぞれの小山さんが立ち上がる。私たちはノートを通して、小山さんをとても身近に感じるようになっていった。

 ■ノートから立ち上がるもの/こと
 ワークショップでは、文字起こしだけでなく、フィールドワークや路上での朗読、座談会をしてみたりもした。小山さんがよく立ち寄ったらしい神社や常連だったと思われる喫茶店などをメンバーとともに訪れると、ノートに書かれていた状況がちがった解像度で見えてくる。また、座談会は、文字起こしを進めるなかで各自が考えてきたことを改めて語り、共有する機会となった。日が落ちて薄暗くなってくる屋外で小山さんノートの一節を朗読してみるのは、小山さんがそこに現れたかのような、自分の声が自分の声ではなくなるかのような不思議な体験だった。ときどき、足をとめて耳を傾けてくれる人もいた。

 思えば、朗読以外はいずれも、ワークショップのメンバーだけで行われたもので、「小山さん」をどのようにメンバー以外にひらいていくのかは、つねに私たちにとって試行錯誤が必要な問題だったのだと思う。小山さんのノート、それに関わる私たち。伝え方を間違ってしまうと、とんでもない方向で誤解されてしまうかもしれない。メンバーのバックグラウンドはさまざまだが、私たちは、小山さんに対するさまざまなレベルでの「共感」を共通項として持っていた。そして、その「共感」を私たちから広く外に向かってひらいていくことについて、逡巡していた。

 ■小山さんノートをひらく
 ワークショップは、コロナ禍のもとでもオンラインでつづけられた。びっしりと文字が書き込まれたA6サイズのノートおよそ80冊をテキストデータにしてみると、A4サイズの用紙に3段組みで659ページもの量になった。私たちが確認できたのは1991年から2004年までに書かれたノートだが、実際にはもっと多くのノートが存在したようだ。小山さんが書いているとおり、公園暮らしでそれだけの量のノートを何年も保管しつづけるのは決して簡単なことではなかっただろう。

 小山さんのノートを、いつかワークショップのメンバー以外の人にも読んでもらうことができたら、という思いは文字起こしをはじめた当初から私たちのなかにあった。ただ、そんな膨大な量の文章をそのまま世に出すのはあまり現実的でない。「出版」に際しては、なんらかの編集作業が必要になる。その作業はメンバーにとってものすごく難しい過程だった。そもそもほとんどのメンバーが、小山さんノートの全体を通して読んだことがなかった。だから659ページの原稿をひたすらみんなで読み込む必要があった。積み上げられた小山さんノートを前に文字起こしをしていたころの、果てしない作業の感覚を思いだす。そして、身を切る思いで抜粋した原稿に、それぞれが重要だと思う箇所や思い入れのある部分を追加したり、また他の部分を削除したりしながら、ノートに書かれた小山さんの生を、理解しきれない部分も含めて、どのように立ち上げることができるのか、話し合いが重ねられた。抜粋が恣意的になりすぎないように、小山さんのノートの全体の雰囲気が伝わるように。どれだけノートを読み込んでも、結局のところメンバーの誰も小山さん自身ではないし、小山さんの真意はわからない。それに、「真意」は本人ですら揺れていたり変化したりするかもしれない。そんなことを考えながら、綱渡りのように、抜粋作業は進められた。そして完成したのが本書である。

 本書には、1991年から2004年までに書かれた小山さんノートからの抜粋が収められている。アパートに住んでいた頃から、公園に移り、本格的にテント暮らしをはじめる頃までの序章につづき、第1章から第6章まで、小山さんの哲学、テントにおける男性との共同生活、そこで受けた暴力、テントでのひとり暮らし、共同生活を送った男性の死とその後の極貧生活、夢や幻想などがおおよそ時系列に沿って展開する。しかし、回想による記述も多いため、編集を行った私たちとしては、どこから読んでもらってもよいと考えている。
 また小山さんノートの本文に入る前に、いちむらさんが小山さんの最期の日々に関わった様子を記したエッセイを、そして本書の最後にはワークショップの各メンバーによるエッセイを収録した。

 書くという行為と、そのための時間・空間をテント暮らしの日常の中で維持するのは並大抵のことではない。小山さんは、彼女が「フランス」や「イタリア」と呼ぶ喫茶店にやっとの思いでたどりつくと、コーヒー1杯を前に何時間もノートを書いたり、それを読み直したり、さらに書き加えたりしていた。何年も後に記述を足しているので、読んでいる私たちとしては、時間が行ったり来たり、タイムスリップするような感覚を覚えることも多かった。
 小山さんは、ユーモアのある、どこか冷静な記述をとおして、自分自身をある意味でつきはなしてみたり、赦してみたりしながら、日々を生きつないでいたのではないかと思う。ノートに出てくるフランスへの旅やルーラという存在は、空想や妄想のようにもみえる。でも小山さんは現実をあきらめて「空想」に生きていたわけではない。それらの「妄想」は現実を生きるために小山さんが生み出したものであり、また小山さんに与えられたものだったのだ。それらを含めた現実を、小山さんは生きていた。ときに悲嘆に暮れることはあっても、ノートの中の小山さんは、常に何かの可能性や未来を信じていた。
 小山さんノートは、決して簡単に読み進めることができるものではない。でも難解なものでもない。ひとりで読み進めることが難しいときは、この本を持って、小山さんのように、喫茶店など人の気配のあるところに、外の景色が見えるところに行ってみるのもよいかもしれない。

著者プロフィール
小山さんノートワークショップ (コヤマサンノートワークショップ) (編)
2015 年3月から月1回ほどのペースで集まり、小山さんが遺した手書きのノートの文字起こしや、小山さんが歩いた道をノートに書かれたとおりにたどってみるフィールドワーク、路上朗読会、ノートとのかかわりを語りあう座談会などを行ってきた。野宿者、ひきこもり、非正規労働者、アーティスト、留学生、研究者など、様々なメンバーがゆるやかに入れ替わりながら継続している。

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